筑紫野市議会 2022-09-22 令和4年第4回定例会(第3日) 本文 2022-09-22
本市の学校給食は、1947年、山口小学校などで脱脂粉乳給食が開始され、1971年1月に現在の共同調理場の新築により、同年9月から小学校、同年11月から中学校全校の完全給食が、多くの関係者の御尽力により開始されています。 先ほど述べましたように、小学校では市内の農業について学び理解を深めているところではありますが、実際には市内の農産物が必ずしも学校給食に使われているわけではありません。
本市の学校給食は、1947年、山口小学校などで脱脂粉乳給食が開始され、1971年1月に現在の共同調理場の新築により、同年9月から小学校、同年11月から中学校全校の完全給食が、多くの関係者の御尽力により開始されています。 先ほど述べましたように、小学校では市内の農業について学び理解を深めているところではありますが、実際には市内の農産物が必ずしも学校給食に使われているわけではありません。
私の時代は、まだ日本の経済、戦後からまだ完全に復興し切れてなかったから経済的にも低く、ですからミルクは脱脂粉乳、私はとても嫌いだったんですけど、脱脂粉乳。それから、うどんを食べるときには大きないりこ、その当時は栄養のあるものをどんどん食べさせる。そして丈夫な体をつくるというのが使命だったようです。ところが、今は、おいしいものをいっぱい食べさせる。
アメリカから無償で与えられた脱脂粉乳が使われ始めました。昭和24年には、ユニセフから脱脂粉乳が寄贈を受けています。昭和25年には、アメリカからの小麦を使い、8大都市の小学生児童対象の完全給食が行われるようになりました。 昭和26年、国庫補助による学校給食の継続を要望する運動が全国で繰り広げられ、翌27年、小麦粉に対する半額国庫補助が開始され、4月から全国全ての小学校を対象に完全給食が始まりました。
40代から70代の協議会の方たちと一緒に、自分たちの時代の給食はああだったこうだったと、先割れスプーンがどうだ、やれ脱脂粉乳がどうだったと、にぎやかな時間を過ごさせていただきました。 その日の献立は、おなじみのパンと牛乳、野菜サラダ、それからメーンに、久留米市で2020年東京オリンピック・パラリンピックの事前キャンプを行うカザフスタンのラグマンという麺料理が出され、おいしくいただいてきました。
我々が子供のころは、日本の世の中まだ貧しい時代ですから、脱脂粉乳とかで、私はどうしても脱脂粉乳がだめで飲まないと校庭で遊んじゃだめだと先生から言われて、こっそり友達に捨ててもらったりとかやった記憶があるんですけどね。今の子供たちは、本当にとっても学校給食を好んでいるようです。近所の子なんかに聞くと、やっぱりおいしいと。
これは市長も知っちゃあと思うけど、脱脂粉乳のですね、これはまずい給食やったですけど、それでもやっぱり出たらうれしかったですたいね。半分以上残してましたけどね。ただ、パン食にしたきちいうて、これ、菓子パンやったら意味ないと思うんですよ、お菓子じゃね。それかちいうて、トーストちいうて焼いたの出すわけにもいかんやろし、そこら辺どういうふうにするかちいうと、疑問があります。
戦後は、学校給食の重要性から、アメリカからのガリオア資金、つまり、占領地域救済政府資金のことですが、その資金やララ物資による小麦粉や脱脂粉乳の援助、ユニセフからも脱脂粉乳の寄贈を受けるなどして、全国に学校給食が拡大しました。
アルミの器に脱脂粉乳のミルクを出されて、これが給食でございました。私の父が予科練から長崎県警に奉職しておりましたので、島に1回は勤務しなきゃいけないということで、私は小学校2年生まで対馬で育ったんですね。対馬は時がとまったようなところでございますので、昔ながらの給食は脱脂粉乳だけでございました。
「私たちのころの給食の思い出といえば脱脂粉乳です。それが温かいと、まあこれは飲めるのですが、これが冷めてしまったら」。その言葉の続きは苦笑いのような顔で、でもどこかうれしそうな顔に僕には見えました。
昭和22年にアメリカから脱脂粉乳が無償で与えられて、昭和24年にはユニセフから脱脂粉乳の寄附を受けております。今ではアフリカの国々の人々にいろいろな食糧を送っている我が国、日本でありますが、ほんの半世紀前までは他国の人々に助けられていたんだなと少し考えさせられます。
◎教育長(松田憲太君) 私の個人的なことで学校とは何ら関係ないということのあれでお願いいたしたいと思いますが、実は私は小学生、中学生を通じまして給食は脱脂粉乳のミルクの時代でございまして、小学校1年生──国民学校1年生から、昭和21年から入ったわけでございまして、ちょうど学校給食でおかずにお野菜の炒めたんであとはなかったと思うんでございますが、パンは私は主食じゃないと。
◆5番(吉住龍太郎君) 今言われたように、私何でこういう提案するかというと、やっぱり給食のありがたさ、我々も給食を食べたことがあるんで、今の給食じゃなくて、我々の時代ですね、コッペパンと脱脂粉乳の。その時代から大きく離れて、今は飽食の時代で物すごくこんな給食、レストランで食べるような給食じゃないかというような感じの給食が出てますよね。メニューから何もかんも。
これが全国に普及したのは、第2次世界大戦後の深刻な食糧不足により、GHQ、いわゆるアメリカ合衆国より無償で提供された脱脂粉乳を用いて、全国約300万人を対象に学校給食が開始されました。そして昭和27年に全国の小学校で完全給食が実施され、昭和29年には学校給食法が成立、昭和31年には学校給食法が改正され、中学校にも適用されるようになったそうであります。
鼻をつまんで飲んでいたあの脱脂粉乳は牛乳にかわり、主食もパンだけでなく、日本古来の主食である米飯が取り入れられ、更には、デザートが添えられている日もあります。このように、学校給食の献立は変わってきましたが、学校給食の献立以上に、子供たちやその保護者たちの学校給食に対する意識が大きく変わり、今では一つの社会問題にもなっております。
私は脱脂粉乳とコッペパンだけの学校給食の思い出があります。当初の学校給食から現在の豊かな食材を利用した恵まれた給食の変遷は戦後60年間の日本人の心の健康と食生活の豊かさに反比例しているように私は思われてなりません。安全で安心な食糧の供給が求められる今こそ岡垣町の農業の振興と活性化に私たちは力を尽くさなければならない時だと私は強く思っております。
私が覚えております給食のイメージは、コッペパンに脱脂粉乳という思い出がございます。学校給食の歴史をちょっとたどってみたいと思うんですが、学校給食は、昭和29年、学校給食法ができて始まりました。これ以前にも学校で食事を出したということはあったようですが、学校給食という形で始まったのは29年ということでございます。そのころにアメリカ政府は豊作続きの小麦の行方に頭を悩ましていました。
戦後の学校給食は、空腹の日本の子供たちにと、米国の奉仕団体やユニセフが脱脂粉乳などを贈与したのが始まり。やがて農業生産が伸びた米国は、国外での消費拡大を図るようになる。脱脂粉乳の無関税措置もその流れにある。54年、学校給食法は成立、小麦粉の食形態を基本とするとあり、内容はパン、ミルク及びおかずとされた。米国の意向に合致したものだった。
また、この解説の中では、食文化を守る上でも、やはり日本農業の米を初め、農産物をやはり小さいところから食をしていくということがどれだけ日本の文化を守ることにもつながるかというところが、アメリカのGHQですか、どうか、戦後のパン食と、それから脱脂粉乳というところが、日本の食文化を大きく変えたんじゃないかということも指摘されております。
我が国の学校給食は、明治22年に山形で始まり、戦後の困難な食料事情のもとでも主として経済困窮と食料不足から、児童・生徒の救済のための措置として、アメリカ等から脱脂粉乳等の援助物資を受けて、戦後は再開されております。その後学校給食の意義に対する理解も深まり、学校給食法の制定を初めとする制度面での整備等が相まって学校給食は普及、充実を図られてまいっております。